通称名 | |
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鎮座地 | 〒583-0012 藤井寺市道明寺1-16-40 |
交通手段 | 近鉄南大阪線道明寺駅西へ150m |
Tel. Fax | Tel.072-953-2525 Fax 072-955-8055 |
URL | https://www.domyojitenmangu.com/ |
メールアドレス |
ご祭神 | 菅原道真公 天穂日命 覚寿尼公 |
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例祭日 | 2月25日 |
御由緒 |
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垂仁天皇の32年(西暦3年)、相撲の祖といわれる野見宿祢が、「はにわ」を創って殉死に代えた功績で、「土師」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜って以来、遠祖天穂日命をお祀りしたのが土師神社の始まりです。 その後仏教が伝来し、推古天皇2年(594)、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺が建てられました。 その土師氏は「菅原」へと改姓し、道真公が現われます。当地には道真公のおば様であります覚寿尼公がお住まいになられていたことからも、道真公は当地を度々訪問されます。 36才のときには十一面観音像(現道明寺ご本尊、国宝)を彫られ、40才のときにはひと夏当地に滞在され、夏水井の水を汲み青白磁円硯により、五部の大乗経を写されました。その経塚から、胚芽が経巻の形をした「もくげんじゅ」が生え、謡曲「道明寺」にも有名になりました。 また、宇多上皇の大和河内御巡幸の際にも当地にお伴され「雨中錦を衣て故郷に帰る」と漢詩に詠まれたことからも、公はこの地を第二の故郷として慕われていました。 やがて57才にして従二位右大臣に進まれましたが、無実の罪で九州大宰権帥として淀川を下られることになり、その舟の中で、 世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき と詠まれ、道明寺への訪問を許されました。 そして、この道明寺で覚寿尼公との別れを惜しまれ、八葉鏡にお姿を映されて犀角柄刀子で自像を荒木に刻まれ、 鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな との御歌を残されて西海に赴かれました。 公は無実の罪であっても、ひたすら謹慎のまことを尽くされましたが、延喜3年(903)2月25日に59才で亡くなられました。 その後、天暦元年(947)に遺し置かれた木像を北丘にお祀りし、ご遺品をご神宝として安置し天満宮を創建、土師寺を道明寺と改称しました。 延慶3年(1310)には西琳寺の僧鑁阿に神託があり八葉鏡に勅封を賜りました。 天正3年(1575)当国高屋城の兵乱に、社殿等が焼失しましたが、幸いご神像と宝物等は難を免れ、この年織田信長公より、また天正11年(1583)と文禄3年(1594)には豊臣秀吉公より、さらに徳川幕府よりも代々の寄進があり、享保年中に霊元法皇、中御門天皇より女房奉書を賜ってから明治初年まで毎年初穂料が下賜されてきました。 正徳6年(1716)の石川の氾濫により、坊舎等は北丘の神社境内に移り、明治5年(1872)、神仏分界により、五坊の中、二之室が神職家となり、道明寺は道を隔てて西に移築され、現在に至っています。 また、明治10年(1877)には明治天皇の行幸の際、行在所となりました。 |